朝から気持ちよく晴れ上がり、雲一つない東京の空です。
爽やかな五月晴れですね。
さて、先日、ユネスコの諮問機関から、「明治日本の産業革命遺産」が、“世界遺産”への登録勧告を受けましたね。その構成資産の一つ、『軍艦島』が何かと取沙汰されています。どこかの国のクレーム問題はさて置き、昨年10月に観光で『軍艦島』に上陸できた者としては嬉しい話題でした。
端島
南北:約480m 東西:約160m 周囲:約1,200m 面積:約63,000m2
外観が、旧日本海軍の軍艦「土佐」に似ていることから『軍艦島』と呼ばれるようになったそうです。
端島では、1810年頃に石炭が発見され、当時の佐賀藩が採炭を行っていたそうです。
1890年に三菱合資会社の経営となり、石炭エネルギーが明治時代の産業革命に拍車をかけ、海底炭鉱鉱区領域はどんどん広がり、護岸堤防の拡張を繰り返し、現在の島の形状になったようです。
高潮荒波に、船があおられながらも、やっと上陸
端島では出炭量が増加が増加するにつれ、人口も増加し、学校や病院、商店、映画館、パチンコホール等の娯楽施設も造られていったようです。
最盛期には、5300人もの人々が住み、人口密度は当時の東京の9倍だったとか、・・・
(中程の建物が30号棟)
30号棟は1916年に建設され、地下1階、地上7階建の鉄筋コンクリート造で日本で最初のマンションと言われています。東京表参道の同潤会アパートより、10年も前に建設されていたようです。
(赤レンガ造りの 総合事務所)
赤レンガ造りの建物、鉱山の中心的な建物で、総合事務所と、トンネルを掘って海底から採炭する作業員達のため、「大浴場施設」があった建物。大浴場のお湯は鉱員達の炭でいつも真っ黒だったそうです。
端島で採炭し精選された石炭は、
写真右側のベルトコンベアーによって貯炭場に蓄えられ、石炭運搬船に積み込まれ端島から輸送されて行ったようです。今では、ベルトコンベアーの支柱が当時の栄華を物語っています。
明治日本の産業革命遺産としての構成要因には、端島の「護岸技術」があるようです。高潮荒波の海中で、よくこれだけ立派な護岸工事をしたものだと感心しました。
軍艦島の施設保存工事には、160億円の費用と高度な修復技術が必要だそうです。台風や東シナ海からの高潮荒波にさらされながらも尚、今に明治日本の産業革命の勢いと、その歴史を伝えてくれる『軍艦島』諸外国へのODAによる資金技術援助も良いけれど、そろそろ、日本国の歴史保存のために資金や技術を使う時がやって来たのではないでしょうか。